道祖土和田窯について
道祖土和田窯について
道祖土和田窯と書いて「さやど わだがま」と読みます。
道祖土は益子町の地名です。古くから陶器の原土が産出したこの地は益子焼の原料である粘土の生産や益子焼の窯元が数多くあり、益子焼生産の中心といえる土地です。
道祖土和田窯は自然の産物といえる陶器を「自然から頂く責任」を持って製造し、陶器の魅力を多くの人々へ届けることを目的としたブランドです。
陶器という道具によって、真の豊かさを提供し、人と地球が共生する。
そんな未来を目指して今日も土と向き合います。
道祖土和田窯の歴史
道祖土和田窯の歴史
道祖土和田窯の前身は1981年に益子町道祖土の地に合田好道の主宰により創設された『合田陶器研究所』にあります。
合田は昭和の半ば頃、益子の窯元の指導にあたり、多くの陶芸家志望者に陶器の知識や民藝の考えを植え付け、益子の歴史を語る上で欠かすことのできない存在です。
合田は表現者として陶器だけでなく、絵画や書などの制作活動を行ました。
作り出される作品は力強く、見る人に訴えるものがあり、当時の表現としては異彩を放つものでした。
合田好道の作品
合田好道と和田安雄
合田は自身が64歳の時に和田安雄と共に韓国に渡ります。
和田は益子の窯元で益子焼の製造を行っていましたが、合田が韓国に渡る助手を探していたことで出会い、それから合田とともに活動を行いました。
韓国の金海地区で韓国の陶工と作陶を行い、窯業の振興に寄与しました。
韓国で6年間活動した後に、益子へ戻り、道祖土の地に合田陶器研究所が設立されます。
合田陶器研究所から、道祖土和田窯への転換
2000年に合田好道が他界し、合田陶器研究所は解散となりました。
合田陶器研究所跡では合田の下で作陶を行った、一番の理解者である和田安雄が益子焼の生産を続けます。
和田は表現者である合田の下で数多くの陶器を制作する上で、自身が陶器作家ではなく生涯を通して職人に徹することを目指しました。
その職人としての姿勢は現在の職人たちにも引き継がれ、現在も合田陶器研究所跡地で作陶を行っています。
益子は現在では多種多様な表現の益子焼が製造され、陶器作家としての益子焼が広く知られるようになりましたが、元来の益子は日用の道具を職人たちが生産することで、陶器の産地として発展した職人の産地です。
合田好道を知る人からは「なぜ合田窯ではなく、道祖土和田窯で活動をするのか」と尋ねられることがあります。
それは私達が「職人」であるという想いを込めた窯名であるからです。
現代では少なくなりつつある「職人」の集団で在りたいという想いを胸に刻み、「道祖土和田窯」として活動しています。